メッセージ |
アメリカ下院議会におけるバーバラ・リー下院議員の発言 アメリカの下院における武力行使の決議において、420対1でただひとり反対を表明した議員のことばです。リンクページにもあるJVCのピースサイトへのリンクです。⇒バーバラ・リー下院議員の発言 |
陸の孤島となったアフガニスタンの村々 クリスチャン・エイドという英国のNGOで、アフガニスタンへの援助を担当しているクリス・バックレー氏が9月14日に友人たちに宛てたメールです。 リンクページにもあるアジア太平洋資料センター発行の「月刊オルタ 10月号」より転載の許可を頂きました。 たった今、アフガニスタンから戻ってきました。そしてアフガニスタンに残してきた人びとに降りかかろうとしている事態に、恐怖をおさえきれない思いです。米国とその同盟国は、ニューヨークとワシントンで行なわれた恐るべきテロ攻撃に対する報復に関して、好戦的な声明を発しています。アフガンの人たちに対して、何らかの大規模な軍事行動を求める西側有権者の感情をなだめているかのようです。 米国とその同盟国がアフガニスタンに対して行おうとしている報復攻撃の脅威のために、アフガニスタンで活動している援助機関で働いていた外国人は撤退を余儀なくされました。ひとつには米国による報復攻撃の標的になってしまう危険のためであり、同時にNATOによる爆撃が行なわれた場合に、西洋人に対する襲撃が起こるかもしれないからです。傷つけられた米国が、長い間苦しみの底にあるアフガニスタンという国に対して行ないうる最悪の攻撃よりも、私たちの撤退による影響は、はるかに深刻な影響を与えることになるかもしれません。 というのは、ほとんど知られていないことですが、アフガニスタンは三年連続で旱魃に見舞われており、まさに大規模な飢饉に陥る瀬戸際なのです。国連の世界食糧計画(WFP)によれば、五五〇万人が食糧援助に頼らなければ冬を越すことはできない状態にあります。五五〇万人というのはアフガニスタンの全人口の四分の一に当たります。 私はクリスチャン・エイドのアフガニスタン責任者として、アフガニスタンの村々で切実に必要とされている食糧と種子の配布に携わっていました。あと二〜三週間でアフガニスタンは冬になり、雪が降って、数百の村々の交通が遮断されます。村と村をつないでいるのは、舗装されていない細くてぬかるんだ道路だけなのです。今、種子を手に入れられなければ農民は来年のための種まきができません。今、食糧援助がなければ、数千の人びとが春になる前に餓死することになります。 アフガニスタンという国は人口の八五パーセントが自給的な農業を営んでいる国です。大半のアフガン人は新聞もテレビもラジオもなく、郵便システムもありません。米国の貿易センタービルのこともペンタゴンのことも聞いたこともないし、ファナティックなグループが西側文明の象徴を攻撃したことなど知ることもないのです。 今、この陸の孤島となった村々では、最後の二〜三週間分の食糧しかなく、急増している難民キャンプでは、すでに女性や子どもたちがコレラや栄養失調によって死亡しています。栄養失調でお腹の膨れた孤児たちに出会いました。飢饉を逃れて難民キャンプに行きたくても、そのためのトラックを雇うお金もない農民に出会いました。村で死を待つしかない子どもたちに出会いました。 しかもこれは、援助機関が撤退を余儀なくされる前の状況なのです。旧ソ連の軍人なら誰でも証言することですが、アフガン人はすぐにあきらめてしまうような人たちではなく、頑固で粘り強い人たちです。過去三年間、彼らは生きるためにあらゆることをしてきました。限られた食糧を分け合い、食糧を購入するお金を借り、不法で低賃金の仕事を求めてパキスタンやイランに密入国しました。アヘン農場で臨時労働者として働いた人たちもいます。 しかし、こうした収入源はすべて枯渇してしまいました。パキスタンとイランは不法就労者を見つけると追放しました。タリバンはアヘン栽培を禁止し、摘発しました。旱魃の三年間を経て、食糧はもちろん、お金を借りるすべもないのです。 そして、今、最悪の事態が現実となろうとしています。たった今、アフガニスタン西部で活動している現地の援助組織で働く友人から次のようなメッセージを受け取りました。 「ヘラートにあるWFPの人と話して、『緊急に食糧を必要としている人たちに配布できる食糧を出してほしい』と頼みました。しかし、WFPは活動を中止したとのことです。なんとかWFPに働きかけて食糧を出すように頼んでもらえませんか?」 これこそが助けを求める本当の声です。アフガニスタンの友人たちは、世界がテロリストの脅威に対してもっと包括的なアプローチを取るべきということを強調しています。それは、報復を求めるのではなく、この恐るべきテロ行為の背後にある、原因を解決することです。 はっきりさせておきたいのですが、数千人の無辜の米国人に対する殺害は、私たち皆にとってショックだったし、心底ぞっとしました。しかし、同じように無辜である数百万人のアフガン人に対して差しのべられている援助の手を失わせしめることは、同様に道義に反することです。米国で数千人の無辜の人びとが亡くなりました。今は、もっと多くの無辜の人びとの命が失われることを防がなければなりません。 (翻訳 井上礼子/月刊オルタ編集委員) |
退役米海兵隊員グレッグ・ニーズ氏の大統領への手紙 10月9日にNYタイムス紙に全面広告を出す活動を続けてきた「グローバル・ピース・キャンペーン」のホームページです。原案となった手紙がこのホームページにあります。 HP:http://www.peace2001.org/ |
米国・アリゾナ州を拠点とする犯罪者やあらゆる依存症者の社会復帰を支援する非営利団体AMITYの理事 ロッド・ムレン氏が各地のスタッフへ送ったメッセージ |
アメリカでのテロについて、イスラエルの平和団体 Gush Shalomから9月12日に届いたメール http://gooside.com/oeda/ヨルダン川西岸のパレスチナ人の村であるベイト・サフールから届いたメッセージを紹介します。 アメリカでのテロ事件を非難しており、この事件に対するパレスチナ人たちの「歓喜」を知らせる大手メディアの報道と、明らかな対照をなしています。 公式メディアは、必ずしも誤ってはいません。 しかし公式メディアは、パレスチナ人の中にさまざまな主張があること、そしてテロに強く反対している人たちもいることを報道していないという点において、決定的に誤っています。 この攻撃について、ぞっとしている人たちもいるのです。 訳注:ベイト・サフールは、ヨルダン川西岸・ベツレヘム近郊のパレスチナ人の街で、昨年来の紛争によりイスラエル軍からの攻撃を受けています。 *** ベイト・サフール市当局より: ベイト・サフール市当局および市民の名において私たちは、このひどいテロによって無実の多くの命が失われたことについて、アメリカのすべての方々に対し深い哀悼の意を表します。特に、遺族のご家族のみなさんの悲しみを思い、この苦しみに耐え、強くあることができる力をお与えくださるよう、神に祈ります。 日々、イスラエルによる無実の人々に対する攻撃に苦しむパレスチナ人として、テレビであのひどい光景を見てどれだけショックを受けたか、表す言葉が見つかりません。 無実の人々に対するこのひどい行ないに対して、強い非難を繰り返します。 世界中のテロ行為をなくすために、一緒に行動させてください。 追伸:このメッセージを広めてください。 (翻訳:JVC 中野恵美) |
被害者(行方不明者)の家族の手紙 <<< 以下転載・転送歓迎 >>> これは、今回の事件の被害者(行方不明者)の家族の手紙です。 ―――――――――――――――――――― To NY Times ――――――――――――――――――――――― To White House: 私たちは、火曜日のワールドトレードセンターへの攻撃で息子を失いました。この数日間、あなたの事件への対応や、上下院がテロ攻撃に対処するため無制限の権力をあなたに与えるという決議について、紙面で読んでいます。 敬具 和訳は枝廣淳子さん |
兄弟、もし嫌じゃなければ・・・ http://www.geocities.com/lovemorgue/brother.html http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20010918202.html ↑ ここで見つけた http://www.e46fanatics.com/phorum/read.php?f=1&i=45274&t=45274 ↑この文章を訳しました。 Author: tim330i (---.ne.mediaone.net) ぼくの名前はウスマン・ファーマン、今年の五月にベントレー大経済学部を卒業した者です。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン出身で、イスラム教徒です。2001年の九月十日まで、ワールドトレードセンターの7番ビルで働いていました。ちょうど反対側にある1番ビルで働いている知り合いや友達もいます。何人かは逃げ出すことができて、何人かはまだ行方が分かっていません。ぼくはこの恐ろしい事件をなんとか生き延びました。 ぼくらがまだ一緒にやっていけるように願って、あのひどい日に、いまだに規模さえ分かっていない悲劇の最中に、ぼくが経験したことをみなさんと分かち合いたいと思っています。ぼくが知ったのは、ぼくたちが誰であっても、どこの出身でも、ぼくらはただ互いに受け入れ合っているんだということです。 ぼくは毎朝ニュージャージーから電車で通勤しています。というか、そうしていました。今でも何が起きたのか信じられないでいます。あの朝、ぼくは目を覚ましてベッドから抜け出し、電車に乗り遅れるんじゃないかとやきもきしながら、ぎりぎりの一本に乗り込みました。なんとかして仕事に間に合うようにしなきゃとひたすら自分に言い聞かせていたのを覚えています。どうにか7時48分の電車に乗って、ホーボーケンに8時20分に到着しました。着いてみると何か食べようと思い立ちましたが、我慢してPATH(訳注:Port Authority の経営する New Jersey 州と Manhattan間の通勤列車線)に乗ってワールドトレードセンターに向かいました。ワールドトレードに着いたのは8時40分でした。7番ビルのロビーに入ったのが8時45分、そのとき最初の飛行機が激突しました。 もしもっと後の電車に乗っていたり、何か食べたりしていたら、5分遅れて横断歩道を歩いていたかもしれません。もしそうだったら、炎や破片の雨に降られて、ここでこうしてみなさんに語りかけていることもなかったでしょう。死んでいたかもしれません。 ロビーにいて最初の爆発音を聞きましたが、よく分かりませんでした。外では工事も行われていましたし、足場が落ちたのかなと思ったのです。エレベーターに乗って27階のオフィスに昇りました。中に入ると、そこは空っぽでした。警報も鳴っておらず、スプリンクラーも作動せず、何もなかったのです。ぼくたちのオフィス、あるいは働いていたオフィスは、7番ビルの南側にありました。ぼくたちは北ビルと南ビルのすぐそばに、文字通り石を投げたら北ビルに届くくらいのことろにいたのです。 携帯電話が鳴って母と話し、生きているよと伝えると、まさにそのとき二番目のビルの爆発が起こるのが見えました。ボストンにいる友達に電話して、彼女を起こしてみんなにぼくは無事で、今から逃げると伝えてくれと頼みました。もう一度下を見下ろし、いつも昼を食べていた広場と噴水を見ると、煙を上げる残骸で埋まっていました。どうやらぼくがこのビルに残った最後の一人らしく、エレベーターでぼくが昇って来るときには同僚はみんな階段で下に降りていたようです。避難するときには混乱はありませんでした。みんな落ち着いて互いに助け合っていたのです。妊娠中の女性が階段で下まで運ばれていました。 ぼくが見たもっとひどい詳細については割愛します。誰もそんな光景を目にする義務はないし、描写するのは人間の品位を越えています。これからの一生ずっとぼくにつきまとうだろうし、ぼくの心はあの事件で命を失った人たちみんなと、事件の痛ましい記憶と共に生き延びた人たちに向けられているのです。ぼくの知り合いがビルから逃げられたのは、千人もの人たちが煙から逃れる道を見つけようと人の鎖を作ったからに過ぎません。あの日はみんながヒーローでした。 ぼくたちは7番ビルの北側に避難しました。建物からはまだ1ブロックから離れていません。警備の人たちは北に行け、振り返るなと言っていました。5ブロックほど進んで振り返って見てみました。何千人もの人たちが驚愕しながら見つめる中、最初のビルが倒壊しました。そんなことが起きるなんて誰も信じられませんでしたし、今でも超現実的で想像も出来ません。次に覚えているのは、五階くらいの高さのガラスと瓦礫の真っ黒な雲がこちらに転がるように向かってきたことです。ぼくは振り返って大急ぎで逃げました。昨日までどうして自分がこんなに悲しんでいるのか分からな かったけれど、それは逃げる途中で転んでしまったからです。次に起きたことが、ぼくにここに来てこのスピーチをさせたのです。 ぼくは仰向けに転がって、この巨大な雲が近付いてくるのを見ていました。600フィートくらい離れていたでしょうか、もう辺りはすっかり暗くなっていました。ぼくは普段から首にアラビア語で安全のためのお祈りが書かれたペンダントをかけています。ちょうど十字架のようなものです。するとハシディズム派のユダヤ人が近付いてきて、ペンダントを手に取って見たのです。彼はアラビア語で書かれた言葉を声に出して読み上げました。次に起きたことは忘れません。強いブルックリン訛で彼は言いました。「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」彼はぼくが起きるのを手伝って、それからぼくたちはまるで永遠に思えるほどの時間をずっと振り返らずに走り続けました。まさか彼のような人がぼくを助けてくれるとは思いませんでした。彼がいなければ、ぼくはきっとガラスと瓦礫の雲に飲まれていたでしょう。 ようやく20ブロックほど離れたところでぼくは立ち止まり、2番目のタワーが崩落するのをぞっとしながら眺めました。タワーの下の通りに逃げ出した人がいるんだと気付いたときには恐怖を覚えました。上にも書いたように、あのビルが崩落するなんて誰も思わなかったのです。ショックと信じられないという気持ちのまま、ぼくたちはミッドタウンまで徒歩で行きました。3番街と47番通りの交差点にある姉のオフィスまで3時間かかりました。いくつかの通りは完全に見捨てられ、完全に静かで、車もなく、何もなく・・・ただ遠くでむせぶようにサイレンが鳴るだけでした。 ぼくたちはなんとかニュージャージーに車で行くことができました。ジョージ・ワシントン橋を渡るときに振り返ると、タワーは見えませんでした。あれは現実のことだったのです。 世界があの悲劇からまき直しを図るにつれ、道端にいる人たちも激しく非難するようになりました。ぼくの家からそう遠くない所で、あるパキスタン人の女性が身の回りの品々を車に積もうと駐車場を横切っていたところを故意に車で轢かれました。彼女の唯一の過ち(?)は頭を覆ってぼくの故郷の伝統的な衣装を身に纏っていたことだけなのです。コミュニティにいる家族の無事が心配になります。ぼくの姉は今では怖がって通勤に地下鉄に乗れません。ぼくの8歳になる妹の学校はロックダウンされて武装した警官に見張られています。 暴力は暴力しか生まず、恐怖と憎しみにかられて互いを襲撃し合っても、この惨劇を引き起こした名無しの卑怯者と少しも違わないのです。もしぼくを助け起こしてくれたあの男性がいなければ、今頃ぼくはきっと病院にいたかもしれないし、そうじゃなければ死んでいたかもしれません。助けはいちばん期待していなかったところからやって来て、その結果、ぼくたちは人種や宗教、民族に関係なく、みんなここに一緒にいるんだということをただ教えてくれたのです。これこそがこの国の基礎になっている主義というものです。
ぼくの名前はウスマン・ファーマン、ベントレー大経済学部を去年の五月に卒業しました。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン人でイスラム教徒であり、そしてぼくもまたこのひどい悲劇の犠牲者なのです。今度みなさんが怒りを覚え、自分なりに仕返ししてやろうと思ったときには、どうかこの言葉を思い出してください。 Post Has Been Edited By Author - Sep-14-2001 14:07:12 PM |